文学体験というのは、極めて貴重な自己形成の要素だった―文学全集、一家に一セットあると思っていたあの頃―16(おしまい)

「少年少女文学全集」に始まって、「日本文学全集」、「世界文学全集」と読み進め、日本の様々な作家や、いろいろな外国の文学に触れてきた私の読書履歴について書いてきた。

この「文学全集」というのは、どんな家にも普通に置いてあるもの、とあの頃は思っていた。

それから、数十巻に及ぶ百科事典についても同様である。

 

しかし、冷静に考えてみれば、そんなものが一般家庭に普通に置いてあるわけがない。

おそらく、PCやスマホなど、現在のようにデジタル系の様々なツールが発展していなかったあの頃は、こんなアナログな代物も、今よりも多少は売れていたのだろうとは思うが。

 

幸いにしてわが家には、それがそろっていたので、私はその恩恵に浴することができた。

今振り返ってみれば、これは非常にありがたいことだった。

 

あの頃、あれだけの活字に触れていなければ、今の私はないだろうと思う。

私にとって文学体験というのは、極めて貴重な自己形成の要素の一つだった。

 

まだ、そんなに年端もいかないあの頃、あんな小難しい世界によく挑んでいたものである。

年齢を理由に、いろいろな可能性に蓋をしない方がいい、ということがこれで分かる。

 

今、「日本文学全集」、「世界文学全集」の中から、それぞれ1冊ずつ取り出してめくってみる。

そうすると、昔の出版物は活字が異常に小さいことに気がつく。

振ってあるルビなど極小の世界である。

これを毎日めくってよく読んでいたものだな、と感心する。

 

最後に、私がこれまで読んだ中で一番の長編を紹介しておこう。

それは、フランスの作家ロジェ・マルタン・デュガールの「チボー家の人々」である。

全部で5巻、書斎の本棚に今でも収まっている。

 

これは、「世界文学全集」の中には収録されていなかった。

何故この作品を読もうと思ったのかは覚えていない。

当時の私は、こんな著名な大作にチャレンジしてやろう、という気持ちが強かったのかも知れない。

 

壮大なこの物語を、やはり四苦八苦しながら読み終えた。

これも若い頃のエネルギーのなせる技だったのだろうか。

 

純粋な文学作品を読む、という行為から遠ざかって、もう随分経つような気がする。

エッセイのような短い文章を除いたら、近年、経済或いは経営に関する本しか読んでいない。

 

私は、文学の持つ深い香りのようなものが好きだったはずだ。

どこかでまた、読者として文学に触れるか、或いは書き手として文学そのものに挑戦するか、いずれかのアクションも起こさないで、このままでは終われない、と思っているのである。

 

        「チボー家の人々」全5巻。トーマス・マン全集の横に並んでいる。

おしまい