コンプレックスと戦ってきた60年―自己成長の条件とは?―Ⅴ

幻冬舎代表の見城徹氏が、その著書である「読書という荒野」の中で述べられていた

「人間が進歩するためには、自己検証、自己嫌悪、自己否定の三つが必要である。」

という言葉。

 

ここまで、その中の自己検証、自己嫌悪について、自分に当てはめながら検討してみた。

さて、最後の「自己否定」についてはどうだろうか。

 

「自己検証」はともかく、「自己嫌悪」も「自己否定」も自分に対するネガティブな向き合い方、ということになる。

前回

「若い人を中心に「自分大好き人間」が結構多い今の世の中では、「自己嫌悪」も「自己否定」も、なかなか持ち得ない感情かも知れない。」

といったことを書いた。

 

「自己嫌悪」については

―自己嫌悪とは、自意識過剰さや自己顕示欲を恥じ、自分の狡さや狭量さ、怠惰さに苛立つこと。―

と書いておられる。

 

一方「自己否定」については

―自己否定とは、自己満足を排し、成長していない自分や、自分が拠って立つ場所を否定し、新たな自分を手に入れることだ。―

と書いておられる。

 

「自己嫌悪」が、やや感情的に自分に向き合うのに対して、「自己否定」は冷静に自分を見つめる必要がある。

理性的な判断が必要なのだ。

さて、そう考えると、私の場合どうだろうか。

 

少なくともこれまで「自己満足」はしてこなかったような気がする。

それどころか、常にコンプレックスと戦ってきた約60年だったかも知れない。

 

世間を知らず、自信満々だったのは小学6年生までで、その後、進学校に進み、その自信を粉々に打ち砕かれてからは、ずっと、この「自己否定」を続けてきたような気がする。

ときどき、ほんの瞬間的に「自己満足」しそうになるものの、すぐに、「いやいや」と「自己否定」に戻る繰り返しだった。

 

そういう意味では、見城氏の言われる「成長していない自分や、自分が拠って立つ場所を否定し」続けてきたのかも知れない。

そう考えると「自己否定」は、わりに自然とやっていた、ともいえるのだ。

 

 

つづく

 

今日の川柳コーナー

◆自己否定 せざるを得ない 我が人生

◆あの頃が もちっとましなら 良かったか

自己否定は継続しております(;´д`)