「自分大好き人間」が一番厄介だった―自己成長の条件とは?―Ⅳ
幻冬舎代表の見城徹氏がその著書である「読書という荒野」の中で述べられている「人間が進歩するためには、自己検証、自己嫌悪、自己否定の三つが必要である。」という言葉。
「自己検証」については、それこそ「自己検証」してみたのであるが、さて、次の「自己嫌悪」について、私はどうであろうか。
見城氏は、「自己嫌悪」について、次のように書いておられる。
―自己嫌悪とは、自意識過剰さや自己顕示欲を恥じ、自分の狡さや狭量さ、怠惰さに苛立つこと。―
この見解に触れる前に、近頃よく聞く「自分大好き人間」について考えてみたい。
「自分大好き人間」というのは、見城氏が書かれている「自己嫌悪」を覚える人間とは真逆にあるタイプのことだろう。
「自己嫌悪」を全く感じない、というのは或る意味ハッピーなことかも知れない。
おそらく「自分大好き人間」は、ほぼ例外なく「自分は優れている」と思っているだろうから、「自己嫌悪」を感じることはないだろう。
私はこれまで雇用してきた人材の中で、上司として、この「自分大好き人間」が一番厄介であった。
困った人材として、能力のない人間、気の利かない人間、適性のない人間・・いろいろ使ってきたが、私はこの「自分大好き人間」が最も使いづらかった。
「自分大好き人間」の場合、まあ、基本的には「自分は優れている」と思っているため、全く能力がないわけではない。
しかし、極端に謙虚さに欠けるため、新しい知識やスキルを、そこそこの自分レベルでしか受け入れることができないのである。
そのため、どんな職場においても「中途半端な人材にしか仕上がらない」という決定的な欠点を持っているのだ。
以前、
「自分に対する評価が低い」
と、私に食ってかかってきた社員がいたが、
「いろいろ、自己アピールをするけれど、お前は、まだ何者でもないじゃないか。」
と思ったものである。
さて、そういった「自分大好き人間」からすると、「自己嫌悪」を持つということは、真逆の考え方になる。
中でも「自分の狡さや狭量さ、怠惰さに苛立つこと」というくだりは、「その通り!」と思わざるを得ない。
特に「怠惰」という点については、深く反省させられるものがある。
「自分の中から「怠惰」を排し、もう少し「勤勉」であったならば、俺の人生ももっと違ったものになったかも知れない。」
と思うことしきりである。
ただ、「自己嫌悪」とまで行っているか、と問われれば何とも言えない。
見城氏の見解に従うならば、もっと、厳しく問い直す必要があるのだろうか。
もちっと勤勉だったなら・・・・・
つづく
今日の川柳コーナー
「自己嫌悪」二句。
◆デジタルで 毎日おちいる 自己嫌悪
◆なにかしら 忘れて今日も 自己嫌悪
年ですなあ・・・・・