ついつい先延ばし、の癖―自己成長の条件とは?―Ⅲ

その著書「読書という荒野」の中で、幻冬舎代表の見城徹氏は、まず「言葉」の大事さについて述べられている。

それから「人間が進歩するためには、自己検証、自己嫌悪、自己否定の三つが必要である。」と書かれている。

 

自己検証はわかるのだが、自己嫌悪、自己否定が何故必要なのかは、なかなか難しいところである。

私が、日々成長を望んでいるとすれば、上記の三つをちゃんと実践しているのであろうか。

 

まあ、そこそこいい年になった私ではあるが、まだ成長、発展したいと望んでいる。

ということは、見城氏流に言えば、上記の三つを実践し続けなければならないことになるのだ。

 

まず、自己検証

見城氏は「自己検証とは、自分の思考や行動を客観的に見直し、修正すること。」と述べられている。

 

私は「自分の思考や行動を客観的に見直す必要性」については、いつも考えてはいるが、それを「修正する」という実践に至っているか、と言えばなんとも怪しい気がする。

特に「行動」については、「いろいろと課題は多いなあ・・・」と思いつつ、修正に至っていない。

 

その最たるものが「すぐやる。」という行為である。

私はしばしば「すぐやらない」のだ。

 

中でも、「事務手続き的なこと」に関しては、ついつい先延ばしにしていることが多い。

それは次のようなものである。

 

住所や名前など、ただ書き込めばいいだけの書類がデスクの上に溜まっていたりする。

或いは、挨拶文とか、保険の更新とか、何か定型的なことを書きこむだけでいいような書類も億劫である。

 

先日は、母の介護関係の書類に、私と母の名前と住所という同じことを、十数回繰り返し書き込むのと押印をしなくてはならず、全く頭がパニックになりそうだった。

まあ、こんなことは私ならずとも嫌になるだろう。

 

日本の「判子文化」とそれに伴う、こういった手続きの煩わしさは、もうちょっとどうにかならないものか、と改めて思わされた。

 

話が逸れてしまったが、とにかく、私の人生、まだ少しでも進歩させることを考えるのであれば、この行動の遅さをも少し修正する必要があるな、と思う。

 

 

つづく

 

今日の川柳コーナー

◆いつまでも 掛け声だけの デジタル化

書類関係の煩わしさは相変わらずです。

◆と言いつつも やっぱり弱い デジタル系

文句言ってるわりには、私のリテラシーは低いようで・・・・