赤線を引っ張るのさえもどかしい―自己成長の条件とは?―Ⅰ
本棚を整理していたら、出版社の「幻冬舎」代表である見城徹氏の著作、タイトルが「読書という荒野」という書籍に目が留まった。
見城氏の著作は、他にも何冊も読んでいる。
これまで読んだのは「編集者という病い」「たった一人の熱狂」「憂鬱でなければ、仕事じゃない」「人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない」といったタイトルの本である。
こうやって振り返ってみると、結構読んでいる。
また、各書籍のタイトル、ネーミングも秀逸だなあ、と思う。
見城氏は1950年生まれである。
1952年生まれの私とはほぼ同世代、辿ってきた軌跡もその時代背景を一にしているので、共感するところも多い。
その見城氏の著作である「読書という荒野」は、おそらく人並み以上に、様々な本を読んでいるであろう私にとって、いろいろと触発される内容が多かった。
本棚にしばらく立てかけてあったこの本を今手にして、あらためて思うところを書いてみたいと思う。
私は本を読むとき、印象に残った言葉や表現、「これは!」と思った文章には、赤ボールペンで線を引っ張ることにしている。
あとで振り返ったとき、
「そうそう、こういうところに触発されたんだよなあ・・・」
と、参考になるからである。
ただ、考えてみれば、そうやって線を引っ張っても、その程度の使い方しかしていないから、ちょっともったいないと言えばもったいないのか、とも思う。
せっかく読んだ本であれば、もっといい使い方があるかも知れない。
さて、件の見城氏の著作であるが、のっけから赤線を引きまくっていた。
大抵の本には、冒頭に「はじめに」という、その本のプロローグが書かれている章がある。
「読書という荒野」では、私はそこに赤線を引きまくっていた。
逆に、本文の方にはほとんど線が書き込まれていない。
これは、私によくあることなのだが、内容が面白すぎて、どんどん先を読みたいときには、赤線を引っ張るのさえもどかしいのである。
おそらく「読書という荒野」もそれだったのではないか、と思う。
あとで、
「しまったなあ。ちゃんと印をつけておけばよかった・・・」
と後悔することもあるが、まあ、そういう本は2回3回と読めばいいのだ。
この本、面白いです。
つづく
今日の川柳コーナー
◆巣ごもりで つんどく本も 片付いた
かった