「裏切る」は大きく分けて2種類ある―「裏切り」という行為を通して己を振り返る―Ⅰ

裏切るという行為については大きく分けて2種類あると思う。


1つは「期待を裏切る」である。

人はしばしば他者に対して期待をする。

しかし、その期待は、かなり手前勝手な願望であったり、相手の力量に比して過大なものであったりするために、結果裏切られることが多いのだ。


もう一つは「信頼を裏切る」である。

前述の「期待」は、いわば願望や希望のようなものであり強制力もない。

しかし、「信頼」は約束事だったり、両者の了解のようなものが前提にあって形成されるものである。

強制力が強く働くわけではないが、どちらか片方の原因で両者の関係に齟齬が生じたり、、約束事が遂行されなかったときに、「裏切られた」という話になるのである。


この「信頼を裏切る」の中には、もう少しシビアなケースも考えられる。

それは「信義を裏切る」ということである。

「信頼」は、ときに一方通行の場合もある。

「信頼してたのに・・・」と言われても、「勝手にそう思っていただけでしょ。こっちは知ったこっちゃないよ。」というケースも考えられる。


しかし「信義」というのは、一方が「知らなかった」ということはない。

前提として、お互い、ある程度の強い信頼関係やリスペクトのようなものがあって成立するのだ。


さて、自分を振り返ったとき、これまで「裏切った」ことはなかっただろうか?ということである。

「裏切る」という、本来「やっちゃいけないこと」をやってこなかっただろうか?ということを考えてみる。


上記の2種類でいえば「期待を裏切る」は、めちゃくちゃやってきているだろうなあ・・と思わざるを得ない。

「きっとやってくれるに違いない。」「あいつならできるだろう。」と、思わせておきながら「なんだ。できなかったのかよ!」「やっぱりダメだったのか・・」という結果の多かったこと・・・


というのは、幼い頃私は、どっちかというと、まあまあデキのいい方だったと思う。

4月生まれだったので、小学校に入ったとき、ほかの子よりすでに体格も大きく少し大人びていた。

 

つづく