野党側の柔軟性を欠いた対応・・もういいよ!―「無謬性」という神話を打ち破るには―Ⅱ

「無謬性の神話」について、室伏氏の見解はさらに続きます。

室伏氏によれば「無謬性の神話」は霞が関だけではない、というのです。

その点について次のように述べておられます。

 

―困ったことに、「無謬性の神話」は霞が関だけではなく永田町にも蔓延してしまっているのです。(中略)

間違っていたものを間違っていたと認める、間違いを正す、その決断をするのは政治の重要な役割の一つであり、臆することなくそうすべき時はそうすべきなのですが、なぜかそうしない。

その背景の一つとして、野党側の柔軟性を欠いた対応があるように思います。―

 

政治の間違いをただすのは、政府自身の責任と思っていましたが、室伏氏は、野党側の責任に触れておられます。

どういうことか?と読み進めると、なるほどと納得させられる室伏氏の見解があります。

それは次のようなものです。

 

―具体的には、ある政策が間違っていた場合、それを所管の大臣が認めた場合、即辞任を求めるという考え方、やり方です。

野党、特に旧民主党系はこれを大臣の「首取り」と呼んで、何か失言でもしようものなら責任追求、辞任要求に躍起になります。―

 

なるほど言われてみれば「ああ、あのことか・・」と思い当たります。

ここに言われている「首取り」には、多くの国民が「そうだそうだ、もっとやれ・・」と思っている人は少なく、いい加減「またあれかよ。もういいよ。」との感想を持っているのではないでしょうか。

 

 

つづく