「シャガールはいいなあ、シャガールはよう」に見るヤクザ映画のファンタジー

「冬の華」という映画がある。ご存じだろうか。

あの高倉健さんが中年にさしかかり、人気絶頂、俳優としてもあぶらののり切った時代の代表作である。

この映画に出てくる健さんはとにかくカッコいい。

かつて「人切り秀」と呼ばれ、その世界でも恐れられた凄腕で昔気質(むかしかたぎ)のヤクザという設定だ。

 

組の窮地を救うために人を殺めた秀さんが、出所してくるところからストーリーは始まる。

その秀さんが、入所前にお世話になっていた老ヤクザの親分に挨拶に行く。

すると、この親分はすっかり切ったはったの血なまぐさい世界に愛想が尽きたようで、今では好きな絵画収集に余念がない。

 

秀さんがその老親分とシャガールの絵の前に立ったとき、親分がしみじみと

「なあ、秀。俺はシャガールが好きなんだよ。シャガールはいいなあ、シャガールはよう。」

というのだ。

私はこの長編映画で、なぜかここのシーンが一番印象に残っている。

 

ヤクザの親分に、こんな高尚な趣味のインテリが本当にいるのか?!?

ヤクザといってもいろんな人がいるだろうから、「中にはもっとインテリだっていますよ。」ということもあるかも知れない。

 

それにしても、ほんの数日前に出所してきたばかりのもと武闘派ヤクザに「シャガールはいいなあ、シャガールはよう。」という親分がいるだろうか。

そう考えたとき、この映画はファンタジーである、と気がついた。

 

この映画の脚本は倉本聰である。

テレビドラマ「北の国から」で有名になった脚本家だ。

この映画は倉本聰が想定するヤクザの世界で成り立っている。

それは、よくあるどぎつい彼らの世界を描いたほかのヤクザ映画よりは、かなりロマンティックでファンタジーに溢れている。

これはかなり晩年の健さんですがやはりカッコいい

 

刑務所にいるときから文通をし、おそらく金銭的な援助もしてきた女の子の成長した姿をひと目見るために、女子高の校門の前に車を止めて待つ秀さんの姿は、今だったらストーカーと足長おじさんの中間くらいの微妙なポジションだ。

この女子高生は、秀さんが殺したヤクザの娘ということになっている。

どこまでもファンタジーな設定なのだ。(ちなみにこの女子高は、映画の舞台が横浜ということなので『フェリス女学院』を想定しているのではないか、と私はにらんでいる。)

 

物語としてはよくできているし、映画そのものも面白いので私は何回か観たが、見終わってみると、どうもリアルなヤクザの世界というよりは倉本聰が描いたファンタジーの世界という気がしてならない。

だからどうのこうのという気は全くないが。

 

ときどき、なんの気もなしに「シャガールはいいなあ、シャガールはよう。」と、リフレインのようにつぶやいている私は少しおかしいのか?!?

健さんに近づきたい