日本型の雇用システムの象徴といえる存在?!?―「働かないおじさん」特集に見る日本のビジネス業界事情―Ⅴ

大企業の中にポツンと設けられた姥捨て山のような部署で、孤軍奮闘していたあの「おじさん」。

その後彼は、復活の狼煙(のろし)を上げるチャンスを掴めたかなあ・・・と、思い出すにつけても感慨深いものがあるのだ。


さて、これももう30年近く昔の話である。

ということは、当時から私は、実証的に「働かないおじさん」の存在を知っていたことになる。


あの頃は、これが企業にとって深刻な問題というよりは、そういった立場におかれた本人たちの方に目がいった。

その個々人に対して「お気の毒に・・」というのが、偽らざる感想だったのである。

バブル崩壊前のことであり、企業側にはまだ余裕があるように見えていた。


考えてみれば、当時でもああいう部署を作って、そこに一定のキャリアを積んだ人材を押し込めるというやり方が、企業にとっても当の本人にとってもいいことであるはずがない。

そう考えると、日本企業の矛盾点は随分昔から根が深かったことになるのだ。


こんな対処法が30年も昔から実施されていたのである。

その矛盾がようやく表に噴き出してきたということは、やや遅きに失した感も免れない。


上記のように、日本企業の中にしっかりと組み込まれたシステムというのはいったいどういうことなのであろうか。

その点をこのコラムの筆者は次のように書いている。


―つまり、働かないおじさんたちは若いころの会社への貸しをいま、取り返しているのであり、日本型の雇用システムの象徴といえる存在なのだ。
そんな彼らがクローズアップされていることと、トヨタなどが日本型雇用システムの刷新に手を付け始めたことは明らかにリンクしている。

日本型雇用システムからの脱却──社会の流れははっきりとその方向に向かい始めた、ということである。―


まあそういうことなのだろう、ということはわかる。

しかしこれが、私が「おかしい?!?」と思った30年も前から変わっておらず、ようやく今になって「変えなければ・・・」というのではいかにも遅すぎる。


ここではっきりと感じるのは「働かないおじさん」の問題は、その「おじさん」の側に主な責任があるのではないということだ。

そんなシステムの中でしか、人材を使ってこられなかった、という日本企業のシステムのあり方が大いに問題なのである。

 

          「働かないおじさん」の特集には刺激的な言葉が並びます。

つづく