男たるもの○○でなければならない・・―大仰なセリフに見る時代の変遷―Ⅰ
日本ボクシング連盟の不祥事が連日マスコミを賑あわせている。
騒動の中心にいる山根という人物は、マイクを突き付けられてもそれほど避けることもなく、結構いろいろと答えていた。
職責の進退の是非とか、この騒動の内容についてはさておくとして、彼の言い回しが気になった。
それは言葉の中に
漢(おとこ)として俺は逃げも隠れもせん・・・とか
男の花道は・・・・とか
俺は世界一の男の中の男と呼ばれている・・・・
と、やたら「男」という言葉が出てくる。
男たるもの、こうでなければならない・・・・と、まあ昔はよく言われていた。
そんな頃を彷彿させる随分時代がかった言い回しである。
この人は、そんなかつての価値観を背中に背負って、自分は立派な「男」を演じているつもりなんだろう。
しかしながら、傍から見ているとみっともないことこの上ない。
そもそも、周りにいる側近や関係者を強面(コワモテ)で恫喝し、屈服させていた態度も見苦しかったし、辞任を決めた後今度は涙声で訴える姿も恥ずかしい限りであった。
ああいう大仰な言葉というものは、それを吐いた人物が、しばしばこういった言葉とは裏腹のみっともない結果や状況を作りだしかねない要素を含んでいる。
それは何故なのだろうか?
私は、それは、内容を伴っていない人間ほど、大仰な言葉を口に出してアピールしたがるからであろうと推測している。
聞いている方は苦笑するしかないが、本人はまるで気がついていない。
つづく