背伸びして読んでいた文学作品―文学全集、一家に一セットあると思っていたあの頃―Ⅳ
「少年少女文学全集」から入って、やがて大人向けの「世界文学全集」や「日本文学全集」などの作品も読むようになった私。
今振り返ってみれば、大作家の文学作品群の中には、子どもから大人へのちょうどいいルートが用意されているようにも見える。
例えば、夏目漱石は「坊っちゃん」や「吾輩は猫である」などから始まって「三四郎」「心」「それから」といった作品に移っていった。
芥川龍之介であれば、「蜘蛛の糸」「杜子春」といった作品から「鼻」「芋粥」「羅生門」などを読んだものである。
森鴎外も作品数は多く「山椒大夫」や「高瀬舟」などから入って「舞姫」「雁」「ヰタセクスアリス」といった大人の作品も読んだ。
今振り返ってみれば、中学生が読むには早すぎるような内容のものも多かったのではないかと思う。
にもかかわらず、あの頃は背伸びして、そういった文学作品に日々触れていたのだ。
ただ、当時これは私に限ったことではなかった。
多くの同級生が、上記のような作家の作品群を何かしら読んでいたのではないかと思う。
夏目漱石と芥川龍之介については、その後、大学生のとき個人全集まで購入してそろえた。
今にしてみれば大した金額ではないが、あの頃、学生生協の本屋に月に1巻ずつ届くこれらの本代を払うのに四苦八苦したのを覚えている。
全巻そろっているこれらの全集は、かさばっている上に重たいので、引っ越しのたび苦労させられた。
今は私の書斎の本棚に並んで納まっている。
しかし、中学生くらいからなんといっても惹かれたのは太宰治であった。
子供の頃読んだのは「走れメロス」だったが、その後「人間失格」「斜陽」「晩年」などを読んで強く影響された。
結局、太宰治も個人全集まで買って、その全作品を読んだのである。
こんな風に、子供の頃家にあった「文学全集」で好きな作家に出会い、その後、その作家の全集まで買って読むというパターンが、私の中でできあがってしまった。
その結果、結構膨大な量の書籍をそろえ、それを読むというライフスタイルを子供の頃から学生時代にかけて送っていたのだ。
夏目漱石と芥川龍之介の全集
つづく
今日の川柳コーナー
◆あの頃は 文才あると 思ってた
狙うは芥川賞・・・のはずが・・