仕事がきちんとできて、社会にちゃんと貢献できる人間に―人の評価「ブランドじゃんけん」について考える
―Ⅵ(おしまい)
さて、ここまでいろいろ書いてきたが、考えてみれば「ブランド」というのは一つの記号のようなものであって、『東大』といえば「頭がいい!」だから「(おそらく)仕事もできる!」と、繋がっていくことになる。
『東大』というブランドは、おそらくそういう風に解釈されているのだろう。
今現在のその人間が本当に優れているかどうかをちゃんと判断しようと思えば、少々時間と手間がかかることになる。
しかし、過去の「ブランド」を信じればそれがショートカットできるのだ。
ただこれは、エルメスとかフェラーリのように、その品質とかセンスの良さが確立された「モノ」であれば通じる話なのではないか。
そういった「ブランド」的な解釈を人間に当てはめた場合、少し怪しいことになってくる。
特に仕事において、過去の「ブランド」が通じるか否かは、ふたを開けてみなければ何とも言えないのだ。
とはいえ、誰しもブランドは欲しいのではないか。
「ブランドなんかいらない。どうか生身の俺を見て判断してくれ!」
と叫んだところで、実際の実力を他人がにわかに判断するのは難しい。
第一、そう叫んだとしても、本当に自分に実力があるのかどうかは何とも言えない。
あくまでも自己申告に過ぎない。
だからどうしても、学歴や経歴、肩書といったものを人は見ようとするのである。
そんな世間の事情もあって、大変だとわかっていても「お受験」といった、馬鹿げた騒動に巻き込まれていくのだろう。
しかし、「学歴」というのは、先述したように人生の前半4分の1か5分の1の時代の話だ。
そこで甘んじてしまった人間と、そこから頑張った人間とでは、兎と亀の話ではないが、十分挽回できるのだ。
「ブランド」などと言う単語を使って書き始めたために、話がなんだかあらぬ方向に行ってしまった。
本筋の話でいけば、「ブランド」など意識する方がおかしいのだ。
仕事がきちんとできて、社会にちゃんと貢献できる人間になればいいのであって、肩書や箔といったものに頼らない生き方の方がはるかにカッコいいのだ。
それが実現できれば、人は自然に「ブランド」になっていくのだろう。
仕事は一生懸命やりましょうね。
おしまい