「読書」は私に何をもたらしたか―マイナスに始まるプラスとマイナス、トータルはプラスか?―Ⅰ
中学生、高校生の頃はよく文学書を読んだ。
そういえば、文学書などさっぱり手にしなくなったなあ・・・普段読むのは実用書ばかりである。
とはいえ、改正税法解説とか新会計基準といった専門書ではない。
大前研一とか、マッキンゼーがどうしたとか、ボストンコンサルティングのなんちゃらとか、経済全般、経営全般に関わる書籍が多い。
私が文学に触れ始めた頃の定番といえば、夏目漱石、芥川龍之介、森鴎外、太宰治、宮沢賢治といったところであろうか。
いずれの作家も私が生まれた頃には亡くなっていた人たちで、今の若い人が村上春樹や東野圭吾、百田尚樹といった同時代のベストセラー作家を読むのとは少し異なっていたように思う。
夏目漱石の「坊ちゃん」あたりに始まって「吾輩は猫である」とか「心」とかを読みふけった。
芥川龍之介の短編も面白く「杜子春」とか「蜘蛛の糸」とか「羅生門」とかも興味深く読んだものである。
中学に入ったころの私は、どうも生意気盛りだったみたいで、いつも何かしらの文学書を持ち歩いていた。
ある日、母と街に買い物に出かけたときも、芥川龍之介の少し分厚い本を抱えていて、母が買い物をしている間、ふてくされたようにそれを読んでいたら、女性店員に
「何を読んでいるの?」
と聞かれたことがあった。
「え、別に・・・あ、芥川龍之介だけど・・」
と、答えると
「難しい本、読んでいるんだね」
と、感心されて、妙に照れ臭かったことを覚えている。
わざわざ芥川龍之介の本など持ち歩かなくてもよさそうに、と、今になって思えばいささか恥ずかしい限りである。
まあ、あの頃は何かしらカッコをつけたがっていたのだろうと思う。
とはいえ、カッコつけたがるというばかりでなく、文学は好きで小説はよく読んだように記憶している。
当時の中学生向けの雑誌には青春小説のようなものも連載されており、甘酸っぱい内容のものが多かったみたいだったが、そっちの方には目もくれずに、少し背伸びして上記のような作家のものをよく読んでいたのである。
つづく